again



 祐巳の心は梅雨入りをした。


 「祥子」
 高等部の校舎から大学の敷地へと続く道で、聖は祥子を呼び止めた。
 「聖さま。ごきげんよう、何かご用ですか?」
 「ちょっとね」
 立ち話もなんだからと聖は祥子をミルクホールへ誘った。
 「あのさ。祐巳ちゃん、どうしたの?」
 「先日の事でしたら、祐巳がご迷惑お掛けして申し訳ありませんでした」
 「いや、それは別に構わないんだけど」
 「何をおっしゃりたいのですか?」
 聖は少し考えてから口を開いた。
 「祐巳ちゃんが言ってくるまで口出ししないつもりだったんだけどね。―――祐巳ちゃん、ロザリオつけてなかったね」
 祥子の動きが一瞬止まったように見えた。
 「祐巳が、ロザリオを?」
 「やっぱり気づいてなかったんだ。あのさ、祥子。祐巳ちゃんに言わないといけない事あるんじゃない?」
 ――――沈黙。
 聖が沈黙を破った。
 「ま、祥子には祥子の考えがあるだろうし。でもね、思ってる事は言わなきゃ伝わらないよ」
 聖がテーブルを立っても祥子はしばらくの間そこに座っていた。


 聖さまは何も聞いてこなかった。ただ祐巳が泣き止むのを待って、家まで送ってくれた。
 送ってもらっている間、何も聞かれない事をありがたく思う反面、話を聞いて欲しい気もした。多分祐巳が切り出せば聖さまはきちんと話を聞いてくれるだろう。何かアドバイスをくれるかもしれない。
 でも、できなかった。自分で自分を追い詰めるのが怖かった。

 祥子さまから走って逃げた雨の日から三日経った日、祐巳は祥子さまに呼び出された。
 伝えにきたのは由乃さんだった。
 「祥子さまが、今日は絶対薔薇の館に来るようにって。祐巳さんどうしたの?最近変だよ」
 「別に何でもないよ?ありがとう」
 「デートの事?」
 「・・・・・・」
 祐巳は少し笑っただけでそれには答えなかった。そして、それ以上の追求から逃げるように教室を出た。

 薔薇の館に向かいながら、何の用事だろうと考える。
 怒られるのか、それとも祐巳の事はもういらないと言われてしまうのか。もしくはこれまでの弁解か。
 祥子さまから「いらない」宣言されるのであれば、言われる前にこちらから言わなければ。
 祥子さまを祐巳の方から拒否する事が、祐巳の最後のプライドだった。

 意を決して扉を開けると、祥子さま一人だった。
 「祐巳。待ってたの。座って」
 祐巳は無言で祥子さまの正面に座った。
 「話をしようにもこのところあなたと会えなかったから」
 ポツリ、と祥子さまがもらした。だから、呼び出したというわけだ。会えなかったのは祐巳が避けていたからだ。二日間、ひたすら逃げ回った。
 「デートの件を怒っているのでしょう?」
 祥子さまが静かに問いかけてくる。
 違う。デートの約束をことごとく破られた事ではなく、その理由が原因なのだ。
 喉元まで出かかった言葉は声になる事はなかった。祐巳が黙っていると、肯定と受け取ったのか祥子さまが言葉を続ける。
 「私も悪いとは思っているわ。でも、あなたはちゃんとわかってくれたじゃない」
 そうじゃない。困らせて嫌われたくなかったから、わかったふりをしていただけだ。
 祐巳の口はまたしても動かなかった。今口を開くと、何か言うより先に泣き出してしまいそうだった。
 「毎週どうしても用事ができてしまって・・・それに瞳子ちゃんも」

 ガタッ!!!

 祥子さまの口から「瞳子ちゃん」と出た瞬間、祐巳は弾かれたように立ちあがった。
 だめだ。もう限界だ。
 「・・・祥子さま。申し訳ありません、これ、お返しします」
 祐巳はポケットにずっと入れておいたロザリオを取り出し、少し震えながらテーブルに置いた。
 さすがに驚いたようで、祥子さまは少し目を見開いた。
 「・・・・・どうして」
 「今まで、ご迷惑お掛けしました・・・・」
 何とかそれだけ言い終えて部屋を飛び出した。背中に「祐巳!?」という祥子さまの声が届いたが、無視した。
 これでいい。これでもう、悩む事はないんだ。


 薔薇の館に一人残された祥子は祐巳の置いていったロザリオを見つめた。
 あまりにも急な展開だった。なぜ。私はそんなに祐巳を追い詰めていたのだろうか。
 祐巳が遊園地を楽しみにしていた事はわかっていた。実現させる事ができない自分を腹立たしく思ってもいる。
 祥子一人ではもうどうしてよいかわからなくなりかけた時、ふと、お姉さまを思い出した。

 「もしもし、祥子です」
 『祥子。どうしたの?元気でやってるかしら』
 「はい。お姉さまもお元気そうで」
 『まあね。祐巳ちゃん達も元気でやってるかしら』
 「・・・・・実は、お姉さまにご相談したい事があってお電話差し上げました」
 祥子はお姉さまに経緯を話した。お姉さまは時々質問しながら「ふんふん」と聞いていた。
 『それは祥子が悪いんじゃないの?』
 話を聞き終えたお姉さまはまずそう言った。祥子に非がある事は祥子自身が十分承知している事なのだが、人から改めて言われると少々むっとした。
 「約束を守れなかった事は悪いと思っています。でも、祐巳はわかってくれました」
 『馬鹿ね。それは祐巳ちゃんが我慢したのよ』
 「我慢?何故です?」
 『聞き分けのない事言って祥子に嫌われたくないからでしょう。祐巳ちゃんはね、不安なの』
 「不安?」
 それまで考えつきもしなかった事を言われ、祥子は眉根を寄せた。
 『そう。祥子の話から判断すると、”瞳子ちゃん”も不安要素の一つだと思う。祥子、あなたは祐巳ちゃんにあなたの考えを話すべきよ』
 「私の、考え・・・・・」
 それは少し前にも聖さまからも言われた事だった。そして、まだ自分が一年生の時にお姉さまから言われた言葉でもあった。
 『妹を不安にさせちゃ駄目よ』


 祐巳さんが祥子さまにロザリオを返してしまった事は薄々気づいていた。学校内にそういう噂がないのは、みんなが気づいていないふりをしているからだと由乃は思う。
 由乃が祥子さまからの伝言を伝えてからも、祐巳さんは薔薇の館へ出入りしていない。最近表情が暗かったから、もしかしたらと思っていた。祥子さまもここ数日、時々考え込んでは溜め息を繰り返していた。
 決定的なのは、体育で着替える時に祐巳さんはロザリオをしていなかった。

 聞くべきか否か。由乃は散々迷った挙句、口を開いた。
 「祐巳さん、元気ないよ」
 すると祐巳さんは少しだけ目を大きくさせたが、すぐに
 「え?そうかな。そんな事ないよ?」
 笑ってそう言った。
 「・・・・・ロザリオ、本当は返したくて返したんじゃないよね?」
 おせっかいを百も承知で切り出した。もうこれ以上友達が辛そうにしている姿を見るのは由乃も辛かった。
 「・・・・・気づいてたんだ・・・・」
 「うん・・・・・・」
 祐巳さんが目を逸らした。
 「もういいんだ。私には荷が重過ぎたんだよ」
 「そんなことないよ。祐巳さんは立派にやってきたじゃない」
 けれど祐巳さんは由乃の言葉に力なく首を横に振った。
 「ごめんね」
 そう一言言うと席を立って行ってしまった。


 翌日、由乃から「何とかして」と泣きつかれた令は困っていた。
 これはあくまでも祥子と祐巳ちゃんの問題で、まだあれこれと口を出す段階ではない気がしていた。
 だが、そんな令の思いは祐巳を見かけた事で消えた。

 令が廊下を歩いていると祐巳ちゃんが歩いてくるのが見えた。
 「あ、祐巳ちゃ・・・」
 声をかけようとして、思わず固まってしまった。祐巳ちゃんはどこか近寄りがたい、死んだような表情で歩いていた。
 「――あ、令さま、ごきげんよう」
 祐巳ちゃんに先に挨拶されてしまった。
 「あ、うん、ごきげんよう・・・・・」
 ぎくしゃくと返事を返した令は「それでは」と言う祐巳ちゃんをただ見送った。

 このままじゃいけない。あんな祐巳ちゃん、可哀想だ。
 令は祥子を見つけて問いかけた。
 「ねえ、祥子。どういう事情か知らないけど、もう一度祐巳ちゃんと話したら?」
 「令は祐巳の事が心配なの?」
 「そりゃあ・・・・・だってあんな顔見たらほっとけないでしょ」
 「あんな顔?」
 祥子が疑問を顔に出した。祐巳ちゃんと顔を合わせていないのだろうか。
 「一度祐巳ちゃんに会った方がいいと思うな」
 「・・・・・・そうね」
 祥子の表情が少し変わったように見えた。その変化が、祥子が不快を示したものかと思って、
 「お節介して、ごめん」
 令は謝った。
 「いいのよ。祐巳を心配してくれて、ありがとう」
 祥子が少し微笑みながら令にお礼を言った。それを聞いて令は、ふと、何か引っ掛かるのを感じた。
 と思うと、するりと口から言葉が出た。
 「確かに祐巳ちゃんは心配だけど・・・私は祥子も心配だよ?」
 自分で言ってから、初めて理解に繋がった。
 そうか、私は祥子も心配なんだ。
 「・・・・・・」
 祥子が驚いている。人から心配される経験の少ない彼女には、驚いて当然の事だろう。
 「だから、あんまり一人で思い詰めないで」
 「・・・・・・令・・・・」
 そこで予鈴が鳴ったので、令は「じゃあ」と言って慌てて自分の教室へ向かった。
 微かに「ありがとう」という言葉が聞こえてきたが、令は振り返らなかった。


 乃梨子との関係を一段落させ、周りを見る余裕のできた志摩子は薔薇の館における空気の変化を感じた。
 その原因は何だろうと思考を巡らせる。そして、気付いた。
 そうか、祐巳さん達か。
 確か少し前に祐巳さんと由乃さんは悩みを抱えていた。由乃さんの方は今はすっかり元通りで、心配はいらないだろう。
 祥子さまはいつもと表面上は変わらないが、それでも少しばかりいつもの自信が少なく見えた。

 祐巳さんが薔薇の館に来ない日が続きさすがに心配になった頃、志摩子は祐巳さんと話をする機会を得た。

 「志摩子さん、私、いつもと違う?」
 祐巳さんに聞かれて、志摩子は少し戸惑ったが、ゆっくりと答えた。
 「そうね。どこか沈んでる」
 「そっかあ。それじゃあみんなも心配するよね」
 どうやら祐巳さんは誰かに心配されたようだ。まあ無理もないと思うが。
 「祐巳さん」
 「ん?」
 「祐巳さんが沈んでるの、祥子さまの事ででしょ?」
 祐巳さんは頭をかきながら気まずそうに笑った。
 「うん、まあ。でも、もう少ししたら、大丈夫だから。ごめんね、志摩子さんにも心配かけちゃって」
志摩子は強く首を横に振った。
 「ううん。・・・・・祐巳さん、私、思うのだけど」
 「何?」
 「祐巳さんはもっと他の事にも目を向けてみたら?」
 「どういう事?」
 「祥子さまだけを見るのではなくて、色んな事に目を向けた方が気が楽なんじゃないかなって思って」
 「志摩子さん・・・・・」
 「一人の事だけ考えていたら、何かあった時に辛いんじゃないかしら」
 志摩子自身が漠然と感じ始めた事を何とか言葉にしていく。乃梨子によって、少しずつ思えるようになった事だ。
 「・・・・・ありがとう、志摩子さん。確かにそうかもね」
 祐巳さんの表情が少し明るくなった気がした。


 志摩子さんと話をしてから、祐巳の考えは少しずつ変わっていった。
 そういえば、私は祥子さまと姉妹だから、と祥子さましか見えていなかった。一つの事に集中する事が必ずしもいい事ではないのだ。祐麒にも以前言われたが、あの時はその意味が理解できなかった。彼はよく気がつく優しい子なのだ。

 そんな時、再び祥子さまに呼び出された。今度は直接、祥子さまが祐巳の所へやってきた。

 「あなたに説明していない事があったの」
 いきなりそう切り出されても、祐巳としては何の事だかさっぱりわからない。
 「遊園地の約束を反故にしてしまう理由なのだけれど・・・」
 「あ、その事でしたら、もういいですよ」
 祥子さまの言葉を遮って祐巳は言ったのだが。
 「お願い。聞いて頂戴」
 祥子さまが静かに言うものだから、祐巳は思わず口をつぐんだ。
 「実はね・・・・・」
 自分から切り出した話なのに、祥子さまは言うのを躊躇っている。言いたくないのであれば無理して言ってくれなくてもいいのに、と祐巳はチラッと思った。確かに祐巳も気になっていることだが、聞いてショックを受けるのならそれは聞きたくない事だ。
 「実は・・・・・車の免許を取りに行ってるの」
 ・・・・・。
 「え?」
 全然思いもよらぬ事実を明かされ、祐巳は変な声を出した。
 「平日は忙しくて、どうしても土日に限られてしまうの・・・・・」
 祥子さまの話をまとめると、祥子さまは車の免許を取りに行っていて、それは土日限定。スケジュールは全て自動車学校任せだから、直前に予定が入る事が多いらしい。柏木さんに自動車学校まで送り迎えを頼んだところ、どこで知ったのか瞳子ちゃんも付き合うと言い出したらしく、言っても聞かない彼女は付いて来ているらしい。そして祥子さまは運転中は時計が気になるから瞳子ちゃんに預けているとの事だ。
 「そうだったんですか・・・。でも、どうして免許を取ろうと思ったんですか?」
 素朴な疑問を口にすると、
 「祐巳が喜ばせようと思ったから。免許があれば祐巳とドライブに行けるじゃない」
 祥子さまは祐巳から視線を外して言った。
 なぜ早くに言ってくれなかったのか尋ねると、祥子さまは顔を赤くして、
 「だって、照れ臭いじゃない」
 と言った。祐巳は嬉しくなった。まさか祥子さまがそんなに祐巳の事を考えてくれていたとは。
 全ての事情が理解できた祐巳は、胸の中のわだかまりがすっと消えていくのを感じた。
 「という事は、祥子さまは別に私の事をいらないと思っていたわけじゃ・・・?」
 「私が、祐巳を?何言ってるの。いつそんな事を言ったのよ。以前にも言ったはずよ。私には、私を側で見ていてくれる祐巳が必要なの」
 「祥子さま・・・・・」
 すっかり見えなくなったと思っていた祥子さまの本音が少しだけ見えた。急に恥ずかしくなった祐巳は話題を変えた。
 「そ、それで、免許はいつ頃取れそうなんですか?」
 「そうね・・・早くても夏になるかしら」
 まあ、週末しか通えないのだから、それは仕方ない事だろう。
 と、祥子さまが口を開いた。
 「ところで、祐巳。もう一つ、大事な話があるのだけれど」
 「はい?」
 今度は一体何だろう。
 「私はこのロザリオ、受け取らないわよ。今まで預かっていただけ」
 祥子さまは祐巳が祥子さまに返した(つもりの)ロザリオを手のひらに乗せ、チェーンを指で持て余している。
 祐巳は自分がロザリオを返した事をこの時すっかり忘れていた。
 どうしよう。祥子さまの心がわかった今、ロザリオを返してしまった事を後悔し始めていた。
 「だから、これ、返すわ」
 祐巳が困っていると祥子さまがあっさりと祐巳の首に掛け直してしまった。
 首に掛けられたロザリオを見ながら、祐巳は本当に姉妹の関係に戻っていいのか考えた。
 また、今回のようにならないという保証はどこにもない。正直、祐巳は怖かった。でも、と祐巳は志摩子さんに言われた事を思い出した。
 確かに、他の事にも目を向けてみるのもいいかもしれない。それに、もっと積極的に祥子さまに接してもいいかもしれない。
 できるかもしれないし、できないかもしれないけど、ここで弱気になって後から後悔だけは絶対にしたくない。
 祐巳は息を吸い、手に力を入れて祥子さまを正面から見つめた。
 「わかりました」
 すると、祥子さまが目に見えてほっとした表情になった。祥子さまも悩んでいた事がその時わかった。
 「免許が取れたら、乗せて下さいね」
 「いいけど、本当に夏に取れるかはわからないわよ」
 祥子さまの言葉に祐巳は笑顔を浮かべた。
 「はい、それでも待ってますから」
 あと一息。もう一歩、踏み出せる。
 「その代わり、私を一番に乗せて下さい」
 言えた。どきどきして祥子さまの様子を覗うと、祥子さまが優しく笑った。
 「わかったわ。絶対、祐巳を一番に乗せるから」
 祥子さまが右手の小指を出した。祐巳は意外な行動に少し驚いたがすぐに自分も右手の小指を出した。
 祥子さまがきゅっと祐巳の小指を絡め取り、小さく、
 「約束」
 と囁いた。
 祐巳は繋がった小指に力を入れてそれに応えた。


 一足早く、祐巳の心は梅雨明けを迎えた。




あとがき


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