「退屈だー」
コテンと倒れるようにテーブルに伏せた祐巳に、すかさず由乃さんの指摘が飛ぶ。
「祐巳さん、お茶、危ない」
おっと、そうだった。慌ててカップを遠ざける。
天気のいい放課後、薔薇の館の二階には祐巳と由乃さんしかいない。志摩子さんは委員会の用事でまだ来ていない。それにしても、志摩子さん属する環境整備委員会はしょっちゅう集まりがある。よっぽど忙しいのだろうか、その割に表立って目立つ活動はしていないけど。
「あー、暇、暇」
祐巳があんまり言うものだから、由乃さんは読んでいた雑誌を閉じて言った。
「もう。そんなに暇なら帰ったら?」
「えー。だってお姉さまを待ってるんだもの」
現在二年生は何かの説明会だそうで、体育館に集合している。だから祐巳は祥子さまを、由乃さんは令さまを待っているのだ。
今日は自由集合だけど、志摩子さんは委員会の後で何か用事があるらしく、一度寄るという内容のことを言っていた。薔薇さまも、きっと気が向けば来るだろう。そう考えると祐巳だけが何だか無駄な時間を使っている気がしてきた。
それは決して祥子さまを待つ時間が無駄だということではないんだけど。
「だったら文句言わない」
「はぁい」
一応返事をしてみたものの、課題も何もないので暇なことは変わらない。そんなわけで、先程から気になっていたことを口にしてみる。
「ねえ、さっきから何読んでるの?」
由乃さんが読んでいる雑誌の、ちらりと見えたページに載っていた人影は偶々なのか、それとも。
「あ、これ?」
由乃さんが表紙をこちらに向けた。
「・・・贔屓の力士がいるの?」
「うん」
名前を教えてくれた由乃さんには悪いが、祐巳はその力士を知らなかった。
「ああ、何かおもしろいことないかなあ」
「祐巳さん、それじゃ黄薔薇さまよ」
苦笑しながら、由乃さん。祐巳はそれまでぶらぶら揺らしていた足を止め、身を起こした。由乃さんの言葉ではたと気付く。
もしかして黄薔薇さまはいつもこんな退屈に身を置いているのだろうか。何をやってもつまらなくて、興味を引くこともなくて。それってかなり、きついことかもしれない。
「黄薔薇さま・・・」
「何?」
思わず呟いた言葉に返事が返ってきたことに驚いて声がした方に目をやると、黄薔薇さまその人がそこにいた。
「ろ、黄薔薇さま!?」
「だから、何?」
黄薔薇さまは手にしていた荷物を椅子に預けながら、いつもの調子で聞き返してきた。
「あ、いえ別に」
祐巳は慌てて首を横に力一杯振った。特に悪いことをしたわけではないけど、噂の対象が現れるのはやっぱり何だか後ろめたい。
けれど黄薔薇さまは祐巳のそのおかしな態度を気にすることなく「そう?」と言うと、それっきりその話題には触れてこなかった。
―――それはつまり、さほど興味を引かれなかったということで。
祐巳は、お茶を淹れる由乃さんをぼんやり眺めている黄薔薇さまを盗み見た。
タイの形は相変わらず美しく、ヘアバンドでまとめた柔らかそうな髪も乱れていない。黄薔薇さまはタイだけでなく、髪もきれいなんだ。
祐巳は自分の毛先に触れてみた。くせっ毛で少しパサパサしている。あ、枝毛発見。トリートメントサボってたからかな。
「くっ」
突然、くぐもった声が聞こえてきた。出所は、黄薔薇さまの喉。
「くくっ。祐巳ちゃん、おかしすぎる」
口元に手をやり、必死で笑いを堪えている。・・・一体どうしたんだろう。お茶を運んできた由乃さんも首を傾げている。
「―――――ああっ、もしかして・・・!」
「ご明察」
涙声で黄薔薇さまは言った。
「枝毛、気になる?」
目の淵に溢れた涙を指先で拭いながら問い掛けてきた。
「それは、やっぱり・・・」
そんなに分かり易い百面相だったのか。毎度のこととは言え、恥ずかしい。
「黄薔薇さまは枝毛なんてなさそうですよねえ・・・。柔らかそうで、気持ち良さそう」
羨ましくてつい漏らすと、あら、と黄薔薇さまは笑った。
「そうでもないわよ。触ってみる?」
「えっ―――」
思いがけない展開に祐巳は大声を出しかけたが、何とか我慢する。
「・・・いいんですか?」
「別にいいわよ。枝毛があったら切っちゃっていいから」
それなら、と祐巳は恐る恐る黄薔薇さまの髪に触れてみた。指を通すとほんの僅かに癖がかかった髪の毛がふわりと滑っていく。
「うわー、気持ちいい・・・」
やっぱり祐巳の髪とは全然違う。
「黄薔薇さま、私も触っていいですか?」
祐巳の隣でウズウズしていた由乃さんが尋ねると、黄薔薇さまは快く承諾した。
お許しを頂いた由乃さんが嬉々として黄薔薇さまの髪をいじり出した。簡単に分けて、祐巳のような二つ分けにしてみたりしている。もしかして由乃さん、髪をいじるの好きなのかな。
その由乃さんは「んー」と唸った後、髪型を少しいじっても良いという許可を得ると、あっという間に細い三つ編みを何本も作った。
「これでエクステがあればなあ」
「すごい、かっこいい」
由乃さんの腕はたいしたもので、黄薔薇さまはまるでモデルのようになった。唯一残念なことは、リリアンの制服だとどこかアンバランスになってしまうことか。
「器用ね、由乃ちゃん」
「こればっかりは令ちゃんより自信があります」
褒められて気を良くした由乃さんは、次の髪型に変えるために三つ編みを解いていった。
全部解き終わったちょうどその時、扉が開いた。入ってきたのは、ベリーショートの令さまと、つやつや、サラサラの黒髪の祥子さま。
令さまは部屋の中の様子を見た途端絶叫した。
「ああぁぁあ!! よよ、由乃! 何、何やってるの!?」
駆け寄ってきて腕をわたわた動かして混乱している。そして黄薔薇さまに向かって深々とお辞儀をした。
「お姉さますいません! すぐに髪は梳きますから!」
由乃さんと一緒になって状況を飲み込めずにいた祐巳は、「髪を梳く」という言葉にぼんやりと理解をし始めた。
三つ編みを解いたばかりの黄薔薇さまの髪はかなりぐちゃぐちゃで、ここだけ見たら確かに勘違いするかもしれない。しかも、それをやったのが自分の妹で、されたのが姉なら尚更だ。
「ああ、これ? 由乃ちゃんに髪型を変えてもらってたの」
手櫛で髪を整えながら、黄薔薇さま。
「・・・そうなんですか?」
「ええ」
令さまは口をぽかんと開けたまま固まった。
「令ちゃんの早とちり」
由乃さんがぽそっと放った一言はどうやら令さまには届かなかったようだ。
「由乃ちゃん、もういいのかしら?」
振り返って髪を摘んで由乃さんに尋ねている黄薔薇さまの姿が何だか可愛らしい。
由乃さんはホントはまだまだやりたそうと思うのだが、少しも顔に出さずにありがとうございました、とお礼を言った。
ようやく一段落ついたところで祐巳は祥子さまを思い出した。
いや、決して忘れ去っていたわけではないのだけが、如何せん令さまのインパクトが強すぎた。
祥子さまは静かに様子を見ていたが、祐巳と目が合うと「そういえば」と口を開いた。
「祐巳。あなた、毎朝自分で髪を結んでいるの?」
「え、はい。寝坊した時なんかは、弟に頼んだりもしますが・・・」
余計なことまで言ってしまった。自ら恥を晒してどうするのだ。しかし祥子さまはそれには構わず予想範囲外のことを言った。
「じゃあこれからは髪をくくる時は祐巳に頼むから」
その時はお願いね、なんて言いながら文庫本を取り出して読み耽る。黄薔薇さまが「祥子の髪は曲者よ」なんて脅しかける。
確か黄薔薇さまは学園祭の時に祥子さまの髪を結ったんだっけ。あの時は大変そうだったな、なんて思い出していると、もう話題は別のことに移っていて、この場ではそれきりになってしまった。
帰り道、マリア様へのお祈りを済ませた後に意を決して尋ねると、
「書類仕事に集中したい時なんかは、髪が邪魔なの」
あっさりと祥子さまは答えた。それから。
「祐巳が嫌なら無理にとは言わないわ」
なんて言うもんだから、祐巳は慌てて首を横に振った。
「嫌だなんて、そんな。それよりどうして私に頼むのかと」
一番の疑問を口にすると、祥子さまが拗ねたような表情でこちらを向いた。
「黄薔薇さまが少し、羨ましくなっただけよ」
「は?」
小声だったため、上手く聞き取れなかった。けれど、祥子さまが少しでもヤキモチを焼いてくれたんだって分かって思わず顔が綻んでしまう。
「何笑ってるの。急ぐわよ、祐巳」
祥子さまはさっさとバス停へと向かう。
祐巳は「はい」と元気良く返事をして祥子さまを追った。
(帰ったらお母さんで練習しよう)
そんなことを考えながらバスに乗り込む。
祥子さまと祐巳と。二人と弾む祐巳の気持ちを乗せたバスは、夕暮れの中をゆっくりと発車した。
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