花
その日、みちるは不機嫌だった。普段なら絶対にしないが今日は昼まで寝ていた。が、そんな事をしても機嫌は直らない。一体何にそんなに腹を立てているのかといえば、答えは簡単。最愛の人、はるかが側にいないからだった。
「はるかのばか」
数えきれないくらい呟いた言葉を呟き、クッションを抱き締める。
もちろん、今までにはるかが側にいない事は何度もあった。バイオリニストとして。レーサーとして。お互い立場が違うのだからそれは当然の事だった。
しかし、今回は少々違っていた。はるかが昨日急に予定をキャンセルしてきたのだ。
はるかは「ごめん」と頭を下げた。
「急な用事ができちゃって。どうしても僕も参加しないといけないみたいなんだ」
心底申し訳なさそうに説明するはるかにみちるは笑いかけた。
「仕方ないわよ。それがあなたの仕事なのだから。それで、何時に戻るの?」
そのみちるの質問にはるかは言いよどんだ。
「あの、えっと、実は泊り込みで・・・・早くても明日の夜中になると思うんだ・・・・・」
それを聞いたみちるは自分の耳を疑った。何を隠そう、明日はみちるの誕生日なのだ。
毎回お互いの誕生日は必ず予定を空けておき、二人で過ごしていた。そのためにスケジュールを詰める事もあった。それだけ、二人にとってその時間が大切な物だから。
明日のみちるの誕生日のためにはるかは二週間も前から休みを取っていた。当日の計画を楽しそうに練っている姿をみちるも目撃した事がある。そんなはるかを見るのはみちるも楽しかったし、嬉しかった。
それなのに。肝心な日に一緒にいられないなんて。みちるはひどく落ち込んだ。仕事だという事は十分承知しているが、どこか納得できなかった。それでも、何とか笑顔ではるかを送り出した。
色々考えた末にみちるが出した結論が、「はるかのばか」なのであった。
そういう訳で、昨日からはるかはいない。
はるかがいない。ただそれだけの事でみちるの心は渇いていった。思いがけずできた時間を埋めるべく、みちるはバイオリンを手に取った。指慣らしでいつも弾いている曲を弾く。
・・・・・何か、違う。気に入った音が出ない。
みちるは諦めてバイオリンをケースに戻した。
それからはもう何もする気がおきず、ゴロリと横になったまま過ごしていた。はるかがいない今、みちるの瞳に映る全ての物は色褪せて見えた。
その時、チャイムが鳴った。一瞬、はるかが帰ってきたとみちるは思ったが、すぐにそれを否定する。いくらなんでも早すぎるし、合鍵を持っているはるかがチャイムを鳴らすはずがない。
身を起こし、簡単に髪を整えて玄関へ向かう。扉を開けるとそこには人の顔はなく、大きな花束があった。
花を受け取ったみちるは部屋に戻り、届いたばかりの花束を見つめた。色のバランスや束の大きさなど、全てが計算済みなそれははるかが注文した物だろうと一目でわかる。一つ不思議なのは、花の種類だった。花束には二種類のメインとなる花があり、一つはチューリップで、もう一つはみちるは知らなかった。
チューリップはみちるの誕生花だ。以前はるかに「私にはちょっと可愛すぎるわね」と言ったら、「そんな事ないよ。みちるに似合わない花なんてないさ」と返された事があった。
もう一つの、みちるが名前も知らない花に込められた意味は何なのだろうかとじっと見つめて考える。きれいな赤い色をしており、その形からラン科の花だろうとみちるは考えた。
図鑑で調べないとだめかしら?そう思い、立ち上がる。その時初めてカードがある事に気がついた。
そこには見慣れた字体で文が綴られていた。
『誕生日おめでとう
今日は本当にごめん
僕の想いをこの花に託して』
それだけだった。みちるは読み返してみたが、他には何も書かれていなかった。
「一体何なのかしら?この花。想いを託す?」
みちるが疑問を口にした時、カードがめくれる事に気がついた。ペリッと音をたててカードがめくれた。そこにもはるかによって書かれた文字が並んでいた。
「オドントグロッサム・・・・・?」
みちるは読み上げた。そしてそれがもう一つの花の名前だろうと考え、書斎へ入る。書棚には様々な分野の膨大な量の本が収まっている。
図鑑に伸ばした手がふと、止まる。花の生態に意味があるのだろうか。はるかはカードに「想いを託す」と書いた。ロマンティストなはるかの事だから、きっと―――――――
本を一冊抜き取る。写真付きの花言葉の本。索引を見ると確かにオドントグロッサムはあった。ページをめくり、目的のページを開く。そして、その花言葉を確認した途端、みちるの両目に涙が浮かんだ。
みちるは立ち尽くした。本を抱えて小さく呟く。
「早く帰ってきて――――はるか・・・・・」
そこへ、絶妙なタイミングで玄関から物音がした。反射的にみちるは走って玄関へ向かう。
そこにはみちるが待ち焦がれた人、はるかが立っていた。走ってきたみちるにはるかは少し驚いたものの、すぐに笑顔を浮かべてみちるを抱きとめる。
「ただいま」
「・・・・お帰りなさい」
はるかは一度みちるを強く抱き締めると体を離した。その時みちるが持っている本が目に付いた。
「あ・・・・花、届いたんだ」
照れ臭そうにしているはるかにみちるは微笑んだ。
「ええ。ありがとう、はるか。涙が出るほど嬉しかったわ」
「それは良かった・・・って、えっ?みちる、泣いたの?」
みちるはそれに答えずふふっと笑うとさっさとリビングへ向かった。慌ててはるかは追いかける。
荷物を置き、着替えたはるかがみちるの隣にすとんと腰を下ろした。
「そういえばはるか、随分早く帰ってきたわね」
「ん、ああ、大急ぎで終わらせたよ。おかげで寝不足だけどね」
はるかはそう言って少し眠たそうに笑った。
「・・・・・ありがとう」
「いや。悪いのは僕だからね。今から御飯食べに出ようか?」
「はるか、寝不足なんでしょう?いいわよ。家にいましょう」
「そう?じゃ、静かにお祝いしようか」
そう言ってはるかは立ち上がり、氷水の入った容器にワインボトルを突っ込んで、片手にグラスを二つ持って戻ってきた。
グラスに赤い液体が注がれた。二人は軽く合わせる。
「乾杯」
一口口を付けたはるかは指先でみちるの髪をもてあそぶ。そしておもむろに口を開く。
「やっぱりチューリップも似合うよ。花も、言葉も」
「そうかしら。チューリップの花言葉は『博愛』よ。似合わないわ」
「どうして?僕はピッタリだと思うけど」
「はるか、あなた『博愛』の意味を知っていて?」
「もちろん知ってるさ。全ての人を平等に愛する事、だろ?」
「ええそうよ。だから似合わないの」
はるかには訳がわからなかった。必死に理解しようと眉根を寄せて考える。そんなはるかの様子を見てみちるはこっそり笑った。はるかは自分の事に関しては少し鈍い所があるわね、と心の中で呟いた。
「私は全ての人を愛してはいないわ。私が愛してるのははるか、あなただけよ」
そっとはるかの手に触れながらみちるが言う。はるかはすこし目を見開いたが、すぐに微笑んでみちるの手を握った。
指を絡ませてしっかりとつなぐ。それを満足そうに見つめていたみちるが少し口調を変えた。
「はるかの方はピッタリじゃなくて?」
「え?」
「スイセンの花言葉、知らない?」
「知らないけど・・・・・」
「ふふっ。スイセンの花言葉はね、『自惚れ』よ」
「おいおい、そりゃないよ」
はるかは苦笑してグラスを置き、みちるを後ろから抱き締めた。
「でも、当たってるかも。僕は自惚れてる」
「あら、そうなの?」
「うん。僕はみちるが僕の事好きだって信じているから」
「大した自信家だこと」
みちるはころころと笑った。
「みちるは僕にとって本当にその花のような存在だから・・・・・」
その花。オドントグロッサムの花言葉は、特別の存在。
はるかは小声でそう言うと、みちるの首筋に口付けた。途端、甘い感情が体を走る。もう一度口付ける。甘い感情はもっと別の感情へと形を変える。口付けを繰り返すはるかをみちるが止めた。
「くすぐったいわ、はるか。お酒が美味しくなくなるわよ」
みちるの言葉にはるかは我に返った。
「あ、ああ、そうだね」
はるかの耳が赤くなっているのをみちるは見逃さなかった。赤くなったはるかの耳にみちるは軽く口付け、囁いた。
「今日は私の誕生日なんだから、当然喜ばせてもらえるのよね?」
みちるの瞳が誘うように煌いた。その瞳を見ながらはるかは目を細めた。
「もちろん。でも、それは後でね」
「あら、後でなの?」
「酒が不味くなっちゃうんじゃないのか?」
はるかの言葉にみちるはくすん、と笑った。
「そうね。じゃ、後で」
二人はもう一度グラスを鳴らした。
あとがき
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