女神

 みちるが学校から帰ってすぐ。中学生が一人で住むには広すぎる部屋に、電話の音が鳴り響いた。
 汗ばんだ制服を早く脱いでしまいたかったが、仕事の話かもしれない、と思うと小さく溜め息を吐いて電話に近づいた。

 『もしもし、僕だけど』
 みちるの予想に反して聞こえてきたのははるかの声だった。はるかの声を聞いた途端、制服のことなどどうでもよくなった。
 我ながら現金なものだと思いながらも、弾んだ声にならないように注意しながら声を出す。
 「あら、珍しいわね。どうしたの?」
 『実は、さ。今度レースがあるんだけど、よかったら見に来てもらえないかな?』
 珍しいことがあるものだ。みちるは、はるかと出会って以来も何度かサーキットを訪れたが、それらは全てみちるが自主的に赴いていたのであって、こんな風にはるかに来てくれないかと言われたことは一度もない。
 はるかに言わせれば、「女の子が見ても面白いものじゃないし、暑いし、エンジン音がうるさいわオイル臭いわで、みちるには相応しくない」らしい。しかしみちるは「はるかの走る姿を近くで見たい」と言って譲らなかった。
 はるかを知るまではモータースポーツの「モ」の字も知らなかったみちるが、はるかが関わっているというだけで一気に興味をそそられた。はるかと同じ空間を共有したいという願望は、暑さが苦手なみちるを炎天下のサーキットへ駆り出す力をも持っていた。

 「もちろん、喜んで見に行くわ。・・・でも、どうしたの?」
 『あ、ああ。今度出るレースっていうのが250ccクラスでね。本当は出る予定じゃなかったんだけど、ついさっき出してもらえることになったんだ。僕、250ccは初めてで、その・・・・・』
 どことなく上擦った声ではるかが言う。みちるは、はるかが言った内容は実は既に把握していた。今度はるかは初めての250ccクラスに出場する。体力的にはまだ不安が残るところだが、テクニックをアピールするにはきっといいチャンスになるだろう。来るなと言われても行くつもりだった。
 誘ってくれたという喜びから、今すぐはるかのところへ飛んでいきたい衝動に駆られたが、ぐっと我慢する。自分には、はしゃいだりする仕草は似合わない。それにそんなことをしたら、はるかは呆れるかもしれない。そう思うと少し気持ちが落ち着いて来る。
 『・・・それで、何となく、君が見てくれてたらそんなに緊張しないかもって思ったんだ』
 珍しく素直なはるかの言葉。はるかはまだみちるに対して一歩引いたように接する。なかなか本心を見せてこない。もっとも、それはみちる自身にも言えた。はるかにまだ見せていない部分。思わず腕を伸ばして抱きしめたくなる。そして、はるかの長くきれいな指で触って欲しいと願う。望んでいたポジションを手に入れたはずなのに、どこかまだ物足りなさを覚える。何度かためらいがちに手を伸ばしたこともあったが、結局触れることはなかった。

 一体、どこまではるかの世界に踏み込んで行くことが許されるのだろう。明らかに他人を遠ざけている態度と空気。初めはその態度に悲しみを覚えたが、何とか近づこうという目標も与えてくれた。そしてその目標を達成させた今、みちるの中に疑問が浮かぶ。
 はるかは私という存在をどう捉えているのか――――
 恐らくは、仕事のパートナー。それ以上でも、以下でもない。口に出して聞いたことはないが、そういう風に思われていると想像できた。はるかは、プライベートの話を一切しない。それどころか、オフィシャルなレースのことについても何も言わない。たまにみちるの方から話題に出しても、二言か三言で終わってしまい、とても会話にならなかった。

 「あなたでも緊張することがあるのね」
 新しい一面を知って嬉しくなる。声に笑いが含まれたことにみちるは気づかなかった。
 『そりゃあね。君だって、新しい曲を弾くときは少しぐらい緊張するだろう?』
 電話の向こうではるかが苦笑混じりに言う。
 「そうね。わくわくするわ」
 『僕もだ』
 はるかとみちるの世界が、わずかに重なった。離れていても同じ物を共有できることを知ったみちるは、生まれて初めて電話という通信手段を開発した人に感謝した。

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