贈る春

 自動ドアをくぐってプールへ姿を現したはるかは、既に来ているであろう人の姿を探して見渡した。けれど目的の彼女ははるかの視界にいなかった。
 広いプールには他に人影はなく、裸足の足音さえはっきり聞こえるようだ。
 「いるんだろ?みちる」
 プールサイドは裸足で歩くとさすがに冷たい。はるかはさらに視線を巡らすと、中央辺りを潜水しているみちるを捉えた。
 「みちる」
 「あら、どうかしたの?はるか」
 ギリギリまで近づいて呼び掛けると、水面から顔を出したみちるがはるかを見る。
 ゆっくりとはるかに近づきながら尋ねてきた。
 「うん、ちょっと。あのさ」
 「ストップ。・・・悪い知らせでしょう」
 はるかの言葉はみちるによって遮られた。びっくりして少し目を丸くする。
 「・・・どうして分かったの?」
 「さあ?」
 その問いに、みちるは目を閉じてそう答えただけだった。

 「実はさ、明後日から一ヶ月、ヨーロッパの方でレースに参加する事になって・・・」
 歯切れが悪くなるのを嫌という程実感しながらはるかは切り出した。
 「一ヶ月?」
 「うん・・・」
 言いながら、これから自分が味わう気まずさを想像してはるかは首をすくめた。
 「明後日から?」
 みちるの声がやけに響く。
 「うん」
 「そんな急に・・・!」
 詰め寄るみちるをなだめるようにはるかは両手で制した。
 「僕も断ろうとしたんだけどダメだったんだ」
 みちるが睨んでいる。何とか機嫌を直してもらおうとはるかは笑顔を浮かべた。
 「あ〜、みちるが欲しがってたバッグ、買ってくるよ」
 が、はるかの予想に反してみちるは手にしていたタオルを投げつけてきた。
 「いらない!」
 そして後ろを振り返る事なく去って行った。残されたはるかは小さく溜め息をついた。


 はるかが日本を発つその日。
 みちるは都内のホテルでの仕事が入っていた。何かのパーティーだと説明されたが、みちるの頭にはそんな事は少しも入っていない。
 自分の出番まで、貰った部屋で休んでいたみちるの元へ来訪者があった。
 「みちる」
 「はるか・・・」
 「今ちょっといいかな?」
 「ごめんなさい、もうすぐ出番だから」
 「・・・・・そう」
 何かを言いたそうな顔をしたはるかは、目を伏せただけで結局何も言わず部屋を出て行った。
 ドアが閉まるとスタッフの女性がみちるに話し掛けてきた。
 「良かったんですか?」
 「いいのよ」
 実は出番まで後三時間はあるみちるは、半ば無理矢理仮眠を取り始めた。


 一方、みちるにすげなく追い返されたはるかだが。
 やっぱりなぁ、とぼやくと携帯電話を取り出した。
 怒っているだろうと覚悟はしていたが、こうも予想通りに反応されると少し落ち込む。
 一番新しいリダイヤルに電話をかける。それから、空港に向かうためにタクシーに乗った。


 同日、夜。
 挨拶もそこそこに帰ってきたみちるは暗い部屋で一つの光源を見つけた。留守電にメッセージがあるようだ。
 伝言は、はるかからだった。
 『みちる?僕だけど。今から飛行機乗るよ。・・・なるべく早く帰るから。じゃ』
 実にあっさりした内容だった。メッセージを聞く間、みちるはじっと電話を見つめていた。
 そして聞き終えた後に溜め息とともに呟く。
 「早く帰る、ねえ・・・そんなのは別に構わないんだけど」
 みちるは窓に寄った。普段は気に入っている眺めだが、今日は何故か苛々する。
 「忘れちゃったのかしら?私の誕生日・・・」


 空から舞い降りてくる雪を受け止めようとしてみちるは手を伸ばした。
 「来年は桜が見たいわね」
 手の平に雪を受けて楽しそうに笑った。
 「桜はまだじゃない?雪だって珍しいよ」
 みちるの少し後ろにいたはるかが苦笑いしながら言うのが耳に入る。
 「まあいいわ。はるかが居てくれればそれで充分だもの」
 「そう?」
 微笑んでそう言うと、確かにはるかも笑っていた。


 「・・・私も冷たかったわよね」
 一人で去年の自分の誕生日を思い出していると、少し気持ちが落ち着いてきた。
 よし、と決心してみちるは電話を取った。


 「おい、誰か電話出てくれ!」
 「あ、じゃ僕が」
 みんなでバタバタしている時に電話が鳴った。普段海外に出ている時はあまり電話は掛かってこない。
 珍しい、と思いながらはるかが電話を取った。
 「もしもし?」
 つい日本語で出てしまい、しまった、と思ったが、相手の反応はなかった。
 「あ・・・」
 電話は切れていた。
 「誰からだった?」
 「それが・・・切っちゃいました」
 「またかよ、はるか」
 はるかはこの電話の扱いに慣れていない。スタッフの一人が、電源と通話ボタンの位置を入れ換えてしまったのだ。
 やった本人は軽い遊び心だと言うが、おかげではるかは何度も間違っている。
 「この電話、いい加減元に戻さない?」
 「ばか、何て事言い出すんだよ」
 壁にもたれておしゃべりしていると、もしかしてみちるが掛けてきてくれたのかも、という都合のいい考えが浮かんだ。
 でもなぁ、と思っているとお呼びの声が掛かる。
 「テストやるぞー」
 「はーい」
 壁から身を起こして歩き出す。はるかは頭を一振りして気持ちを切り替える。
 (・・・まさか、ね・・・)


 ブツッ、ツー、ツー、ツー・・・・・・

 みちるは電話を当てている耳を疑った。
 呼び出し音があって、出たと思った途端に切れてしまった。電話に出たくない、という風にしか解釈出来ない。これでは居留守を使われた方がまだましだ。
 「何なのよ、もう・・・」
 電話を置いたみちるはその場に座り込んだ。はるかの残した留守録を、膝を抱えて何度も聞いていた。


 みちるは誕生日を迎えた。
 この日も仕事が入っている。みちるが突然入れたのだ。家で一人でくさっているより仕事に集中した方がずっと健康的だ。
 突然切られた電話以来、はるかに電話を掛けていない。
 届いた花束やメッセージの中からはるかの名前を見つけようとしたが、それは徒労に終わった。演奏中も、会場の中から姿を探したがそれも無駄に終わった。
 はるかと会っていない間、ずっと記憶の中の優しさを思い出していた。だから、優しくなくてもいいから早く現実のはるかに触れたい、そう思った。


 帰り着いたのは夜の十二時前だった。本当はもっと早く帰れたのだが、今日がみちるの誕生日だと知った主催者が引き留めたせいだ。
 早く眠りたいと思っているとインターホンが鳴る。
 いくらなんでも非常識だと思ったが、住所を知っているのは限られた人間だと思い直してドアに向かう。
 ノブを回してドアを開けた瞬間、みちるは全く予想外の出来事に見舞われた。

 桜吹雪に包まれた。
 その景色の向こうに立つ、はるかの姿。
 「はるか・・・?」
 微笑を浮かべたまま立っている人の名前をみちるは呼んだ。
 「どうして?」
 「会いたいから来た」
 「だってまだ一ヶ月経ってないわよ」
 「予選だけ出たんだ」
 その後に小さく、負けたよ、とはるかは続けた。みちるはその言葉が信じられなかった。
 「―――私のせい、よね。ごめんなさい」
 「みちるのせいなわけあるもんか。純粋に僕の実力不足」
 はるかが頭を掻いた。
 「ところでこの桜どうしたの?」
 視線を下に落としてみちるは尋ねた。はるかの手がみちるの頭に触れる。桜の花びらが一枚、二枚と舞っていく。
 「去年、桜が見たいって言っただろう?」
 その言葉にみちるはハッとした。
 「・・・覚えていてくれたの・・・?」
 「当然。早咲きの桜を探したんだ」
 「じゃあわざわざ―――ありがとう」
 「いえいえ。今ってまだ六日?」
 はるかが時計を探してきょろきょろする。みちるは少し笑ってそれに答えた。
 「後五分だけどね」
 「間に合ってよかった」
 ほっと笑うはるかの顔を見てみちるも表情が緩む。
 はるかがポケットから小さな箱を取り出した。蓋を開けてみちるに差し出してくる。
 「誕生日、おめでとう」
 指輪をみちるの指にはめながらはるかが言った。

 そしてそのまま、そっと触れるだけのキスをした。





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